識の檻々

言葉と脳と虚構のはなし

公立の他人事じゃない溝のこと

 

中学までの同級生から複数の刑事犯が出ている。ここ10年間のことである。

 

 

今回は上記postにいう「公立校の底辺層」と「不可視化された存在」に関わりそうな経験を思い返していく。

私はいわゆる、地方の公立校(小学校〜高校)の出身である。
大学の同級生には「よく言えば安上がり」と嘯いていたが、遜ってみせる中にも思うところはあった。

 

 

「底辺層」とも呼ばれなくなる

刑事犯となった同級生のうちひとりは暴力に訴える子、もうひとりは何かと保護の行き届いていない子、だったと思う。

授業も課外活動も彼らのためにしばしばかき乱された。ひとつ上下の学年より易しい工作物をつくり、簡単な曲でばらばらのリコーダーアンサンブルを奏でた。


いつだったか当時の担任と話す機会があったが、様々な面からみて分散が大きく、受け持ったうちで最も統率が困難な学級であったとの釈明を受けた。

彼らの助けになりたかったかというとどうにも素直に頷けはしない。
彼らに限らず、そこに呑まれていた人たちの無節操もまとまらなさも確かに侵害的なものに感じられていたからだ。

 

ゥチら最強の04娘01

先日、当時の「強いグループ」のひとたちから同窓会の話が立ち上がった。
皆が倣っていた、いわゆるギャル語のような表記*1 がそのまま現役で使われていたことにもいちいち当時からの苦味が走る。

 

同窓会は断ることにした。
そこは今なお私には侵害的な空間であった。
彼らにとっての私(たち)は依然しょうもない陰キャといった辺りだろう。
対話と和解という尊い営みは、双方がその先にベネフィットを見出せるときにしか発生しない。おそらくずっとこのまま、互いに嗤い合っていく。

 

ifに根ざした期待は止まず

居心地の悪さを感じていただけに「公立では底辺を思い知らされる、あるいは学べる」という言説にはどこか共鳴しない部分がなくもない。
しかるべき環境にあれば負わなかった痛みもあるのかもしれない、とifを夢想したこともある。

かと言って、選抜のかかった均質な集団にいれば本当に傷まないのか?勝ち続けられるのか?ひとりだけでも疵のない育ちを歩もうとすることがいかに難しいか。
選抜をクリアできる側にあることを前提として語られがちである点も引っかかるところ。

 

いま挙って教育競争に駆り立てている保護者は、わが子に同様の痛みを負わせたくないがためにそうするのであろうことは理解できる。
しかし、その投入資源に見合う期待が実るとは限らないことを思うと、流行りの「ガチャ」の喩え*2とともにどうしても渋いものが込み上げる。

 

早期からの教育競争に立たされた側については実感を伴って語れることはないので、以下のとおり近日の記事を引かせていただく。

 

親が子どもの耐えられる限度を超えて勉強を押し付け、時には暴力も伴う「教育虐待」の被害が道内外で後を絶たない。「教育熱心」との境界があいまいで表面化しづらく、親が虐待であることを自覚しないまま、子どもの心身を傷つけているケースも目立つ。

「教育虐待」後絶たず 限度超え子どもに勉強強要 時には暴力も(北海道新聞) ‐ Yahooニュース

 

→ 次回へ続きます。

shikiori.hateblo.jp

 


 

*1 「じ」を「ぢ」に変換、あ行とや行を小文字で表記、半角カナの混ぜ書き等

*2 参考 人生はスマホゲームと同じ?「親ガチャ」「子ガチャ」に注目が集まる背景