識の檻々

言葉と脳と虚構のはなし

不可視化のための対価

 

→ 前回から続きます。

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「こんな世界に生きていておかしいと思わないのか」

10月13日、JR札幌駅構内で刃物を持った男が目撃されていた。見出しはその際に男が叫んでいたものである。

news.yahoo.co.jp

 

これほど芝居がかっていては漫画かTVドラマの導入のようにも思える。

(こんな世界に生きていておかしいと思わないのか)

処理しきれていない何らかの澱を思い返す。理性かなにかの皮を二、三枚剥げば私も似たようなものかもしれない。ひょっとしたら一枚きりで済んでしまうかもしれない。

そうよぎった途端、踏み外した向こう側との境界が以前よりは明確には見えなくなっていた。

 

引用にあたって再度記事を確認したところ削除されていたため上記のとおり差し替えた。現在は本人の出頭により捜査中となっている。

男は10代の少年であった。邪推にすぎないが、同世代への影響を懸念したのかもしれない。

 

 

前回の同窓会のLINEの流れでは、一線を越えてしまった後の「彼ら」については頑として語られなかった。

 

今になって眉を下げながら「彼ら」には援助が必要だったのだろうとひとまずの結論に落ち着かせているのもその場しのぎ的に思われる。

見下ろす側にあることを前提としている時点で既に思い上がりではなかったか。

制度を担うもの

真に助けを要する人は助けたくなるような姿をしていないものとも聞く*1

そのため、思いやりの有無などに左右されて取りこぼしを生むことのないように福祉制度は存在するのではないか。

しかし制度の実行部隊を担うスタッフらとて元は個人であり、リソースとしての善意と滅私をあてにされ続ける世界は変わらず広がっている。
従事者の負担と志望者の減少を考慮するとそこに頼り続けることができるとも思いがたい。

 

育児や教育に関わる情報に触れようとすれば、そう望まなくても期待を煽るような情報が飛び込んでくる現状である*2

出生数の減少、教職並びに福祉関連職の人員不足を見るに、人間を産み育てケアすることの歓びに重圧が勝る現状も無理からぬことであろう。

人間に代わる存在が人間を養い、面倒を見るようになるまであと何年を残しているだろうか。

 

どこかが浮けばどこかが沈む

足元にまとわりついてきた者を「底辺」と吐き棄てたくなる心境も、次世代ではそれらを避けたくなる心境も理解しているつもりでいる。

それでも、和解には至らなくても、見たくなかったとしても確実に在る者、そして見たくない者を見ずに済ませてくれるものについての認識は少なくとも持ち続けておきたい。せめて反面教師辺りにでもしておくのが限度ではないか。

 

着地点があまり整わなかったかもしれないが、ここ最近の疑問点として留めておいた。

お付き合いいただきありがとうございました。

 

 


 

*1 この関連はまた改めて取り上げるかもしれない

*2 参考 助けたいとさえ思われない弱者の考察